杉浦非水からロドルフ・サリスへ

 

非水は「幼い頃から絵といえば日本画しか無かった。洋画を教えてくれる人も居なかった」って言う。愛媛県松山市で洋画の世界に触れていたら、、非水は悔やむような気持ちを吐露している。そうは言っても、別の洋画家が三越でアフィッシュを依頼されたとして、あれほど魅力的な作品群が誕生していただろうか。ジスモンダを模写しただけでは描けないよ。

 

三越の仕事は多忙を極めて、非水は出勤日を週二日に減らすんだけど、それでも自身の制作活動が出来ず、最終的に三越を退社する。「本来やりたいことではなかった」とも漏らしている。その後、日本画を出品したり、日本画の展示会を催したりするンだけど、鳴かず飛ばずの反響で非水は随分悩んだようで。

黒田センセイに「自分は日本画に戻った方が良いのでしょうか?」と質問すると、黒田は「デザイナーとして天性の素質を持つオマエがそんなこと言ってンじゃねえよ」とやんわり否定する。フランスで10年。ブルターニュにも滞在して多くの画家を見てきた黒田がそう言うンだから、非水の迷いも吹っ切れるはずなンだけど、晩年は日本画を描き始めていく。

 

非水とFoujitaは共に活動したことが無いんだけど、カメラを手に写真を撮る事や、様々なモノを集めるコレクターという趣味を併せ持つ。不思議と共通点の多い二人である。

 

Foujitaはパンチュール(絵画)だけに留まらず、壁画や天井画も手掛けていた。生活する中で必要なものは買ってくるのではなく、自分で " 作る " ことが本来の生き方だとし、グラスや皿などの食器はもちろん、縫製技術で服やカーテンも作っていた。こういった小物達は、Foujitaが君代と晩年住み続けたパリ近郊の、中古物件をリフォームしたメゾン(自宅)で活躍した。

 

そんなFoujitaだから、もちろん " 料理 " も作ったンだろうね。現在ではメゾン・フジタとして一般公開されてるこの家には、1960年代の物と、Foujitaのアトリエ、君代と寝食を共にしたであろう部屋を内覧できるように、村に寄贈されている。

屋内はフランスで定番のオイルヒーターやシュミネ(暖炉)、炊飯器やミシン。あちこちに点在する棚はおそらくFoujitaの手製だろう。

 

Foujitaの数ある語録に「私はアーティスト(芸術家)ではない。アルチザン(職人)である」という言葉がある。

 

Foujitaは子供が好きで、玩具のコレクターでもあった。ドールハウスも作ってたし、寓話をオマージュした作品もある。ネコが好きで、ドール(人形)が好きで、終生、蚤の市に通うのが大好きだったから、君代を連れてクリニャンクールにも足を運んだに違いない。1956年「すぐ戻ります 蚤の市」は「 JE REVIENS DE SUITE 」と書かれたものが細い糸のような静止線にぶら下がってる。ジュ・ルヴィアン・ドゥ・スイット。「私はすぐ戻ります」っていう意味。店主がランチ中なのか、それとも小用なのか、誰も居ない売り場の一角にガラクタが積み上げられている。Foujitaが楽しそうに描いている様が思い浮かぶ。

 

日本では不用になった物をリリースする「ガレージセール」があるけど、フランスの蚤の市っていうのはソレとちょっと違う。言うなればオークションに似ている。Foujitaの絵を見てもわかるように値札が無い。欲しい人が現れると、ガラクタが突然輝きだす。

グザビエに「家具のオークション行くンだけど一緒に行く?」って言われて、私は「行く行くッ」

朝、カステルノーリヴェールバッスを車で出発して昼前にトゥールーズに到着。体育館みたいに広いホールにはたくさんの人が。その人々を囲むように箪笥やベッドなどがぐるりと並べてあり、番号札が付いてる。

私:「どれを買うの?」

グザビエ「フフ」

グザビエとクロディの二人とは別行動で私はFnacへ。クロディが持っていたシャルキュトリーの本が欲しくて探すンだけど無い。

この日は教師のストライキで街は中学生だらけ。中学生達が持ってるプラカードには「私達に未来のカギをくれ!」って書いてある。

お昼。二人と合流。これから三人で超魅力的なレストランへ向かう。カーヴ・ド・ラ・マレシャル(Cave de la Marechale)は前菜がバイキング方式でおかわりは何度でも可。アーティチョークのサラダ、パスタと野菜のサラダ、サラミ、ハム、パテ、ムール貝、魚介のマリネ、サーモンのショーフロワ、テリーヌ、茹で卵、生ハム、ピーマンのマリネ、、上の段にはタルト類。今日の肉料理は「仔牛のグリーンペッパーソース、ズッキーニのガーリックソテーとフライドポテト」で、魚料理は「ルージェのポシェとバターライス」定番の「アントルコートステーキ」これら三種の中から主菜をひとつ選ぶ。赤ワインと白ワインは自由に呑んでよくて、コーヒーは別料金でパンは食べ放題。これで一人65フラン(1フラン25円)。日本に帰ったらおんなじことやろう!って思った。やってないけど。

実は今回二度目の訪問だった。だからグザビエに誘われた時は二つ返事だったのよ。そして午後もオークションで私も同席。夕方5時まで続く。前回と違って価格もモノもすごかった。30万、40万、50万、、。電話で参加している人も居た。グザビエは3千フランでスペイン産木製ベッドを二つ落札。

6時過ぎに「アジアセンター」という名のスーパーマーケットへ向かう。日本のお米が1kgで40フラン。ミツカンの米酢、のり、トルティーヤを買って車に乗り込む。グザビエの運転で友人ディディエ(Didier Gouchault)さんのお宅へ。奥様はスペイン人。娘さんと息子さんのシャルル(Charles)。ディディエは日本語を少し話せるからビックリ。なるほど、グザビエと一緒にエールフランスで働いてたンだって(グザビエは「コンニチハ」しか喋れないけど、英語とドイツ語、スペイン語とイタリア語が話せる)。日本へは毎年行くらしく、明日から上海へ行くのだと。こちらのお宅でアペリティフを頂いた後、ディディエの兄弟アラン(Alain)さんとその奥さんのエディット(Edith)さんの家へ向かい、ここで夕食をごちそうになる。エディットはドイツ人。

家は小さめなんだけどすごくかわいい内装で、思わず写真に撮る。瓶詰にしたセープ(キノコ)を使ってアランがオムレツを作るンだけど、どうしてフランスって国は、こういうなんでもない料理がウマいんだろう。ジャンボンセラーノ(ハム)とレタス、トム・ド・サヴォア(チーズ)とワイン。エディットが私に「キュイジニエ(料理人)なのね!なにか作って!」私がインゲンとエシャロットを即席のヴィネグレットソースでサラダを作るヨコにエディットが並んで、グザビエに「写真撮って!」

フランスの家庭ってまな板が無いんです。鍋やフライパンやボールの上で、手とペティナイフを使って野菜を切る。グザビエの家でもそう。初めて行った日に、

私:「まな板どこ?」

グザビエ:「えーっと、どこにあったかなぁ・・」

 

エディットは明るくて陽気なマダム。そのおかげなのか、私のフランス語がスラスラ出てくるから不思議。とても楽しいソワレになった。グザビエもワインで顔が真っ赤だった。

アランの家を出たのは夜12時を廻ってて、カステルノーの家に戻ったのは午前2時過ぎ。私は部屋へ入るなり、爆睡したのである。

今思うと、帰り道、誰が運転したんだっけ。

みんな呑んでたンだよね、、

 

Foujitaがユキを連れて来日した1929年、下船する二人を出迎えた人達の中に吉原治良(1905-1972)という青年が居た。吉原は芦屋に住む御曹司で、将来は企業を継ぐ身でありながら独学で絵を学んでいた。日本では吉原の評価も高く、敬愛するFoujitaに自分の作品を評価してもらいたい一心でこの日を待っていたのだった。ユキに花束を渡す吉原は、初対面のFoujitaに深々と頭を下げる。

 

「私の作品を見ていただけませんか」

 

在パリ時、Foujitaと交流し、私淑もしていた上山二郎(1895-1945)の助けも借りて懇願する吉原は後日、Foujitaが泊まるホテルに自信満々の作品を鼻息荒く持ち込むンだけど、絵を眺めるFoujitaは吉原に対し、オリジナリティというのがどれだけ重要なのかということを説いた。吉原の作品には敬愛する上山やFoujitaの影響が散見されていて「もしや、ジブンで気づいてないの?」と言われ、吉原は自叙伝で「大いに参ってしまった」と書いている。

 

フランス料理では、人真似ではない料理をマ・キュイジーヌ(私の料理)という。それはFoujitaの言うような、先人の影響を受けていないオリジナル料理を指す。リラダンの料理はおもいっきり模倣だからマ・キュイジーヌではないんだけど、オレは芸術家じゃなくて職人だからダイジョウブ  w

Foujitaは渡仏後「トランプ占いの女(1914年)」を描く。うーん、これをピカソ作だと言われたら頷いてしまいそう。実際この絵を最後に、Foujitaは独自の画風を追い求めるようになっていった。

 

5年後の1934年、Foujitaは再び来日。ユキと離別していたFoujitaはパリのダンサー、マドレーヌを連れている。吉原はFoujitaに絵を見て欲しいと懇願する。作品を見たFoujitaは、

 

「今度はいいよ」

 

吉原はムチャクチャ嬉しかったと思う。ホントウのオリジナルじゃないと評価されない。Foujitaがフランスで評価されているのはまさしくマ・キュイジーヌだから。上手に描けたらオッケーじゃないんだよ。人の真似をしちゃだめだ。コレは誰の絵でもない吉原クンの絵だよ。Foujitaは二科会(美術団体)に出品するように勧める。Foujitaが推薦する画家として、吉原治良はデビューしたのだった。

 

 「芸術というのは、自然を主観的に変形させたものである」

 

ドニ (Maurice Denis) の言葉を思い出す。非水も「自然の中には図案のヒントが無数に存在する」といって、昆虫や植物、動物のスケッチを欠かさなかった。現実をデフォルメするのがデザインであり、その効果が鑑賞者を惹きつける。それが芸術でもあり、アフィッシュなんだと思う。

 

非水が藝大に入学した1897年、ロドルフ・サリス ( Rodolphe Salis ) がパリ近郊で没している。サリスが開業したキャバレー「シャ・ノワール」には多くの画家が集まった。当時すでにアフィッシュ(ポスター)、カリカチュア、影絵、写真、映写機が、シャノワールを中心にパリで巻き起こっていた。

 

非水の渡仏がもっと早かったら、、 

 

次回から、19世紀末のパリで美術界を席巻したキャバレー、 シャノワール (Le Chat Noir) をつぶやこうと思う。

 

ネコってかわいいよね~