L'Autre Chose 「杉浦非水 et デシネ」

梅雨入りしてゲリラ豪雨を繰り返す日もあり、びしょ濡れになりながら買い出しに走ることもあったが、晴れた青空を見るのを久し振りに感じる朝。

 

非水がグラフィックデザイナーになろうと決めたのは、黒田清輝がフランスから持ち帰ったミュシャ(Alphonse Mucha)の作品を見た事だった。どのアフィッシュ(ポスター)を非水が見たのかはわかってないんだけど、サラ・ベルナール(Sarah Bernhardt)を描いた「ジスモンダ」ではなかったかと言われている。近所のオジサンが描いた武者の絵や、神社に奉納する額絵を夢中で模写して育った非水。日本画を学んだ矢先に、あのジスモンダを見せられたら、、

 

 " 衝撃 " が非水を襲ったとしても不思議はない。時は明治時代。落雁や羊羹を学んだ小僧がいきなりフランス菓子を食わされたようなもンよ。

 

非水は日本画を勉強する為に愛媛県松山市を出て上京する。下宿させてもらったのは同じ松山出身の内科医の家なんだけど、このお医者さんを主治医にしていたのが西洋美術家の合田清。その合田の教室がある建物の二階に黒田センセイの研究所が有ったというから人生どうなるかわからない。元々美大受験を考えていなかった非水だったけど「やっぱり受けよっかな」と藝大を受験してみたら合格しちゃった。黒田センセイは「姪っ子に日本画を教えてやってくんない?その代わりフランス語を教えてやるからサ」と非水を自宅に通わせる。

非水は日本画をやめたわけではなく、在学中は日本画の勉強を続け、卒業作品で「孔雀」を完成させる。まさに「すげぇ・・」という作。黒田が再び渡仏したのはその頃で、非水は東京外国語学校に入学。フランス語に磨きをかけながら黒田の帰りを待つ。一年後、黒田が帰国。そこで非水はミュシャのアフィッシュを見たのだった。

 

藝大を卒業するタイミングで非水のフランス留学の話が頓挫する。黒田の斡旋で非水は大阪の印刷会社に就職。その後結婚。妻であり、歌人である翠子と生活を共にしながら島根県で教師として過ごすのだが一年で退職。再び上京し、三越で嘱託として働くことになり、カルピス株式会社で顧問も務めたのだった。そして時は流れ、、

 

非水46才にしてフランスへ遊学に行く。渡仏する非水に、カルピス創業者の三島海雲が仕事を依頼する。

 

1922年、神戸港を出発した日本郵船の箱崎丸に乗船した非水は、二か月かけて南フランスのマルセイユ港に到着する。非水の主な目的は留学だったンだけど、三島が自社製品の広告用ポスターのデザイン募集をドイツ、フランス、イタリアの三ヶ国に絞って企画。フランスに居たFoujitaが協力することで、非水は作品を集めることができた。

 

Foujitaも応募すればよかったのに。

 

ってワケにはいかないよね w

 

結果、ドイツのオットー・デュンケルスビューラーの作品、ストローでカルピスを飲む黒人のアフィッシュが採用された。この図案は商標登録され世間に広まったけど、人種差別という論争に巻き込まれ、1990年以降は姿を消す。

 

非水が帰国した年、黒田清輝は病気の為に58才で死去。

 

非水とFoujitaの付き合いは晩年まで続く。今回の企画展ではFoujitaが非水に贈った自画像とポートレートも紹介していて、それを見た私は嬉しくなってしまったのです。

 

仲が良かったンだね。非水47才。Foujita37才。Foujitaはこの時期、キジ白のネコ(トロ吉に似てる!)を横に髪を触る女性を描いた「タピスリーの裸婦(京都国立近代美術館蔵)」 Foujitaの二人目の妻フェルナンドとのツーショット「室内、妻と私(笠間日動美術館蔵)」を発表している。後者の作品は、フェルナンドの心が離れていくのをなんとか繋ぎ止めたいFoujitaが、ココロの揺らぎを訴えているのではないかと推察されている。

Foujitaはフェルナンドと別れて、三人目の妻リュシー・パドゥ(Foujitaは肌が白いリュシーに「ユキ」というあだ名を付ける)を連れて1929年に来日する。この時Foujitaは日本橋三越で個展を開いたり、母校の藝大で「パリで生活するってどうよ?」っていう講演もしてる。オレも聞きたかった。おそらく非水も居ただろうし、もしかしたらユキとも面会してたんじゃないかね。Foujitaと非水はこの時、一緒に国内旅行もしている。

 

その後ユキは、Foujitaと親しかった詩人のロベール・デスノスと恋仲になる。それを知ったFoujitaはユキに別れの手紙を書いて、パリでダンサーをしていたマドレーヌ・ルクーを専属モデルにしてリオデジャネイロへ。このころのFoujitaは南米のテイストを漂わせたマドレーヌを多く描いている。

 

Foujitaがマドレーヌを連れて来日した時に発表した「ちんどんや 職人と女中」「魚河岸」「スモウレスラー」「自画像(1936年)」長い外国生活を送ってきたFoujitaの眼に日本は " 異郷 " に映った。

この時Foujitaは、後に妻となる君代と出会う。

 

マドレーヌは一時、単身フランスに帰るのだが再び来日。どこか体の具合が悪かったのか、間もなく急逝する。Foujitaに連れ添った女性の中で唯一入籍しなかったマドレーヌ。Foujitaがユキとの法的離婚が済んでなかったからか。それでもFoujitaを支えて尊い7年間だったと思う。

そしてFoujitaは生涯最後の妻となる君代と入籍する。君代は長くFoujitaを支え、Foujitaが没した後もFoujitaの作品を管理し、Foujitaの思想と人生観をFoujitaの代わりに守り続けた。

「Foujitaはフランス人であり、日本の洋画家ではない」君代は、日本人画家の作品にFoujitaの絵を並べるのを嫌った。

 

ユキとの離婚がフランスで成立した時、Foujitaがユキと別離してから23年が経過していた。Foujitaはすでに君代と夫婦だったけど、それは日本での話。君代を連れてパリの区役所で入籍手続きを済ませたFoujitaは68才になっていた。渦中のユキはフェルナンドと友人だったというのも、フランスらしくて理解できる。

 

フランスっていう国は、別れたけど一緒に住んでるっていう二人も居るし、別れた後もお互いに行き来して自宅に招待する人も居る。私はそういうフランスが好き。

 

非水がフランスに滞在したのは1年ほど。予定よりも早く帰国した理由は関東大震災(9月1日)の一報。急いで帰りたくても日本まで船で二か月かかる。非水は気が気でなかったと思う。

この6年後、非水は来日したFoujitaと再会する。考えてみると、非水が三越で活躍している時にFoujitaは藝大在学中。卒業後渡仏してるワケだから、非水にとってFoujitaは後輩だけど、洋画やフランスの知識は先んじている。お互いにリスペクトしてたと思う。

 

非水は翠子が死去して5年後、89才で没する。その時Foujitaはシャンパンの故郷ランスに礼拝堂を建て始めている。

Foujitaはフランス国籍を取得し、洗礼名も授かっていた。おそらく、大切な友人の悲報は知り得たと思うけど、死生観はFoujitaの心を随分安らかにしたのではないだろうか。

 

礼拝堂が完成した年の暮れ、Foujitaは体調を崩し、パリで手術を受ける。退院してまた入院。Foujitaは死期が近いと察したのか、礼拝堂をランス市に寄贈。その後、体調が悪化してスイスの病院に転院。

 

1968年、Foujitaは81年の人生を終える。

 

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雨が降りそう。

買い出し、行ってくるかな。

 

おわり

 

 

「杉浦非水 時代をひらくデザイン」

 

群馬県立近代美術館(群馬の森)

2023年4月22日~6月18日開催