10éme「十字架の見える風景」

藤田嗣治という画家。

この人物だけで美術展が開催できるほど凄い芸術家です。今回のブルターニュ展では、ひっそりとひとつだけ並んでいる印象だ。

以下、藤田ではなくFoujitaと書きたい。

 

東京美術学校(現東京藝大)在学時、foujita22歳の時に描いた作品は、その後最初の妻となる鴇田とみではないかと推察されているFoujita作「婦人像」

すげぇよこの絵。22歳?まじですか。で、渡仏前なのにサインは「FOUJITA  MAI 1909」

1909年5月。フランス語で書いてます。しかも自身の名前を「FUJITA」と書かない。フランス語の発音だと「フュジタ」になっちゃうから「フジタ」の発音に近い「FOUJITA」と書いてる。独学なのか、教えてくれる先生が存在してたのか、在日フランス人がFoujitaの近くに居たのか。サインだけでも凄さがわかる。

 

Foujitaは幼少期から絵を描いていて才が有った。人から絵の道を勧められたことも長命だったのも、画風は違うけどモネに似ている。後から知ったのだが、藝大時、黒田清輝がフランスから帰国して教授を務めていたから、Foujitaがフランス語を学ぶ環境は出来ていたのだなと思った。その後、フランスに渡ってからは言葉の壁でかなり往生したらしいけど、Foujitaでさえ、通る道はみんな等しく同じなんだね。

料理の道も同じなンだけど、日本人と一緒に居たらダメだと考えたFoujitaは、フランス人の中に身を置くことに徹して、文化や習慣の違いに戸惑いながらも適応させていった。

佐伯祐三が渡仏後、オヴェール・シュル・オワーズ村へ赴き、ヴラマンク(Maurice de Vlaminck)に自信満々の絵を見せたらムチャクチャ酷評されたのは有名な話。教科書の技術を最上としていた画学生が多数を占めていた日本。そこで学んできた佐伯はヴラマンクの一発で目が覚めたのだった。佐伯同様、Foujitaも渡仏直後にキュビズムや印象派、スーチンやルソーの作品と相対して愕然とし、黒田センセイから教わってきたものは全部ダメダメだったことに気が付く。

 

後年、Foujitaが73才の時、本作品について「キリスト教に芽生えるきっかけだった」と言っている。ブルターニュにはカルヴェール(キリストの受難を題材に制作された石像)がたくさんあって、十字架もカルヴェール。Foujitaはこの二年前にもブルターニュで違うカルヴェールを描いている。

「風景 (1918年)」

 

リラダン (Ville de L'Ile-Adam) の隣り、オヴェール・シュル・オワーズ (Auverts-sur-Oise) はゴッホの没した町。リラダンみたいな個人経営のレストランへ行くと店内に飾られている絵画を買えたりする。たっぷりのラタトゥイユ(Ratatouille)とテュルボ(Turbot)を白ワインで食す。

オワーズ川はセルジー・ポントワーズ (Cergy Pontoise) を経由してセーヌ川へと合流する。水量が多く、どっちに流れているのか見ただけではわからない位、ゆったり流れる川。

この地に生息するタゲリ(Les Vanneaux)という鳥は街のシンボル。道路の名前にもなっている。 (Chemin des Vanneaux)

 

6月11日で終了したブルターニュ展。

 

次回、Epilogue。

 

Lundi 12 Juin 2023

 

1920年頃 油彩/カンヴァス 33×23.8cm

Foujita