9éme「ブレハの少女」

 

フランス料理店では、スタッフが食べる食事のことを「マンジェ」っていう。いわゆる " まかない " 。

マンジェ(Manger)はフランス語で「食べる」っていう意味。今はどうなのか知らないけど、私の修業時代はワインも付いた。料理用ワインの時もあれば、マンジェ用のワインを用意している職場もあった。お酒に弱いスタッフは水で割ったり、氷を入れてたり。職場はフランス語だし、内装もパリの歴史あるビストロって感じだから、我々従業員もフランスに居るみたいでワクワクしたものである。

マンジェを作るのは基本的に下っ端の役目。私も修業時代は自分の仕事だった。ホールスタッフも含めて8人から10人分を一日二回。フランス料理じゃなくてもいいんだけど、大人数なので場所を取らない煮込み料理が多かった。一ヶ月のまかない費が5,000円だったので、店の余り物や捨てるような食材、じゃがいもやタマネギ、ニンジンなどをたっぷり入れてボリュームを出したりして切り詰めて貯めたお金で良い食材を取って贅沢したりもした。おコメは使い放題だったので、月に一回はカレーライスとか。あ、もちろんルーから作るんだけど。ごはんに載せるどんぶり物などは手軽に作れたし、みんなの評価も悪くなかったから重宝した。先輩に褒められるとうれしくてね~。なにを作って褒められたかって?覚えてますョ。野菜といろんな肉、大量のトマトで煮込んだガルビュールみたいなものだったけど、普段なにも言わない先輩が「うまいよコレ」って言ってくれた。

私が高校2年生の頃(農大二高) 、料理の道へ行くことに決めたンだけど、同級生が「オマエがコックぅ?」ってビックリした。みんな大学進学だったから。その後、代々木にある服部栄養専門学校へ。1年間通って調理師免許を取得した。最近、二年制の調理師学校があるみたいだけど、なんで二年も通うの?って思う。一年目はカリキュラム通りで、二年目は専門的な分野に絞って教えてくれるシステムだと思うけど、学校側からすれば、在籍してくれればそれだけ利益が出るからなんだろうね。私に言わせれば、調理師学校でいくら習っても、現場に入ったらなんの役にも立たない。未経験よりはマシかなという程度。ガッコウで一年余計に在籍するよりも、一日でも早く現場に入った方がいい。実習と実践は全然違う。後から入ってきた奴等は " 後輩 " だ。

 

私の場合、

学校が終わると新宿駅の地下にあったカフェレストランでアルバイトをした。これは現場の空気に慣れておきたいから。夕方出勤するとまかないを食べさせてくれる。私の担当はサラダ料理、ピザ、リゾットだったけど、当時はどこも本格的ではなくて、パン生地をパイ皿に伸ばしてピザソースを塗り、サラミやピーマンなどをトッピングした物や、リゾットはスープの中にゴハンを入れた " 雑炊 " だった。そういう時代だったから、フランス帰りのシェフがやってる店が理想だった。

街場のレストランか、それともホテルにするのか、本格的なフランス料理を学ぶにはこの選択から始まる。ホテルで一人前になるにはかなりの年数がかかるンだけど、街場のレストランというのは常に即戦力を必要としているので、なンでもやらせてもらえるし、なンでもできるようになって欲しい、と店側も思っているから、短期間でなンでもできるようになれる。席数は20席くらいで数人のスタッフで回していて、価格帯は高すぎず、基本的なフランスの料理やワインを提供するトラディショナル(伝統料理)な店。要は ” 自分がやりたいことに近いイメージの店 " を選ぶことが大切。自分の店を持ちたい人がホテルや結婚式場で働くっていうのは論外なンだよね。将来ブライダル会社を興したいとか、ホテルを経営したいとかペンション(オーベルジュ)が夢っていうのであればホテルだろうけど。

ホテルのレストランっていうのは宿泊客、披露宴、パーティーの需要に応える。残業手当が付き、有給休暇が有り、退職金、年金も約束される。ある意味 " きちんとしてる会社 " であるし、そういった環境は、お客さんが来なくなるとか、失業するとか、そういうリスクは街場のレストランほど低くはない。安心して働ける一方で料理に磨きがかかりにくい。大量生産によるクオリティの維持、みんなで協力して仕上げるドレッセ(盛り付け) 、繊細なアセゾネ(味付け) から距離を置くローリスク対策。そういう環境に身を置くと、一人のお客さんに対する肌感覚というのが身に付かない。ホテル関係者から「それは違う」って言われそうだけど、私が言いたいのは、理想とする将来の自分を思い描いた時、ソコに似た環境に身を置くことが大切だってコト。最初に就職するのはホテルかレストランか、それを論じてるだけ。優劣ではなく。

 

調理師学校の一年は早いです。4月に入学したら10月には就職考えます。だから学校は就職先に「このコは来年3月、間違い無く卒業できます」っていう " 卒業見込み証明書" っていうのを発行するから、成績が悪いと就活もままならない。服部栄養専門学校ってキビシくてね。まず制服( ! )があるんだけど、濃紺のブレザーにネクタイだから、電車に乗ると同じような制服着た高校生達と居合わせる。通学時も胸ポケットに名札を付けないとダメ。20歳以上の生徒は名札に先生のハンコが押されて校内での喫煙が許される。 

髪の毛は襟にかかったらボウズにされる(本当) 

遅刻三回で停学(だったかな) 

そンな学校だからか " 鍋磨き " が厳しく、どの店に入っても「鍋みがきが上手」って言われる(ホントかな)。校内では " Tsuji " という言葉は禁句。西の大御所をライバル視してた。まぁ半分おもしろがっていただけなんだけどね。

で、どこの店に入るのか?ってことなんだけど、日本で活躍するオーナーシェフが集まる「クラブ・デ・トラント」というのがあって、そこに加盟している店のどこかに就職するっていうのが、日本で本物のフランス料理を学ぼうと考えてる人の不文律だった。今は注目されるお店が多くて、若いコはどの店に入ればいいのかわからないよね。

私は加盟する店のひとつに入店が決まり、ムッシュ(オーナーシェフ)に「来年4月の入社を待たずにアルバイトをさせてください」と願い出た。

将来自分の店をやりたかったらサーヴィスの経験は必須。そしてそれは厨房へ入る前が鉄則。なぜなら厨房へ配属された後は覚えることが延々と続くから、途中でサーヴィスを学ぶというのはかなり難しいのである。

元々、有名店というのはいきなり厨房へは入れない。大抵、サーヴィスをやりながら厨房に空きが出るのをひたすら待つ。私は「将来は自分で店をやりたいので、サーヴィスもお酒(バーテンダー)もお菓子(パティスリー)も勉強したい」と言っていたので、西麻布のレストランではなく、南青山のブラッスリーへ配属された。

採用が決まった10月から、学校が終わって地下鉄千代田線で南青山へ向かう生活が始まる。マネージャーやシェフ、先輩達に挨拶し、制服を着せてもらって店のルーティンを口頭で説明を受ける。オーダーはフランス語、メニューもフランス語。店のレジ下には辞書が置いてあり、ほぼ毎日手に取っていた。当時はヒゲを生やしたこわもてのシェフ(料理長)とスーシェフ(副料理長)の二人が仕切ってて、なぜか私は可愛がられた。理由は今でもわかンないけど。

翌年4月、正式に社員として採用。すでに半年経過していた私は後から入ってきた同期二人よりセンパイだ。年齢は同じなのに二人は私に敬語で話すから、対する私も敬語になってしまって「お前ら何で敬語で話してンだよ」って笑われた。我々三人は仲も良くて志も高かった。私は二人に店の仕事を教えるってことはほとんど無くて、早番の日、終業のタイムカードを押してから厨房へ向かう。シェフに「なんでもいいので手伝わせてください」と言って許可をもらう。本音を言えば帰りたいけど、そこを我慢して自分の熱意を職場に示した。そうあるべきだと信じてたンだね。

シンクに入った鍋やフライパンを洗うだけなんだけど、厨房の片隅で汗を流した。自分から直訴しておいて「そろそろ帰りたい」と思い、時計を見る。結局、ラストオーダーがきてシェフが一服する頃に放免されて。仕事なんか見てないけど、そういうストイックな精神が修業だと思って励んだ。そのうち、同期の二人も私の真似をして厨房へ向かうようになった。給料安くて休憩無いし、座るのはマンジェの時の10分位だったけど、みんなが同じ境遇だから耐えられた。

当時、芸能関係のお客さんも多かった。女優の岩下志麻さんはタルト・タタンがお好き。デザイナーの山本耀司さんは大きくて真っ黒な犬を連れて、外のテーブルでエスプレッソが定番。サザンの桑田さんが何度かバーボン(IWハーパーだったかな)を飲みに来てた。沢口靖子さんが来店した時はシェフが「サインもらってこい」と私にレースペーパーを手渡し、化粧室から戻ってきた沢口さんに差し出すと笑顔で応じてくれた。松田聖子さんが、まだ赤ちゃんだった沙也加さんを抱っこして、神田正輝さんと中学生くらいの男の子(甥っ子さん?)と四人で来店した時、たまたま私が接客したんだけど、聖子さんに「このコに飲ませるミルクあります?」って訊かれた私は「はい、あります」って答えた。

料理を4皿両手に持って階段を駆け上がる。団体客のオーダーをメモ無しで受ける。サーヴィス英語の教科書買って、外国人のテーブルへ行ってみる。スタンダードカクテルの注文が入るとカウンターに入ってミキシンググラスでステア。仕事帰りに行きつけのバーへ行って同じドライマティーニを注文した。

閉店後のレジ閉めを覚えた。店のスペアキーを託される。支配人が休みの日は店を任された。当時私は20歳。そんな時、シェフとスーシェフが店を辞めることになった。

シェフ:「おまえも来るか?」

私:「いえ、ここでやります」

この業界は、シェフが動くとキュイジニエも付いていくから大変だ。まだサーヴィスだった私に声をかけてくれたのは嬉しかったのだが、私にはこの店を去る理由が無かった。そして、スーシェフを連れてやってきた新しいシェフは前任のシェフとは正反対の、全く怒らない柔和な人だった。この人が私の師匠「佐藤さん」だ。

 

佐藤さんの入店を機に、私は厨房入りを許される。その後、厨房は安定したまま時は過ぎ、同期の二人は店を去って行った。理由は、いくら待っても厨房へ入れなかったから。

料理人になろうとしてこの業界に入り、サーヴィスに転向する人は多い。接客が好きっていうのは共通しているけど、きっかけは様々だ。一方、いくら待っても厨房へ入れないので頭を丸めたら厨房入りを許されたって人も居る。

 

黒田清輝は法律家をやめて画家に転向した人。タイトルは「ブレハの少女」だけど、フランス語では " 無音のアッシュ(H) " といって「H」は発音しないから正確には「ブレア(Bréhat)」

 

当時の日本人はブレハって読んじゃうんだろうなと思うけど、藤田(藤田嗣治)はフツーに発音したと思う。フジタは " フランス人 " だから。

 

 

 

1891年 油彩/カンヴァス 80.6×54cm

黒田清輝