6éme「砂丘のあざみ」(オデコを7針縫った話)

ゴールデンウィークが明けて、

早朝。

仔牛(生後10数日)の骨を20kgと同量のミルポワ(野菜)でフォンを取る。

 二日間ノンストップで火にかけるいつもの作業。東京FMで住吉美紀さんのブルーオーシャンが始まる。何を隠そう、私は住吉さんに3度程メッセージを読んでもらったことがあるオーシャンヌ(リスナー)。住吉さんに「ポジティブシンキングですねぇ」と言われたこともある。その通りです。

店の開店まで2時間ある。私は「ラジコで聴けるからいいか」と外へ出る。

表の駐車場にバケツ、スクレーバー、シュアラスターのシャンプー、洗車ブラシ、ホースリールを用意する。そりゃあ洗車もしたいけど、なによりもリラダンの窓が汚れていたし、この作業ずいぶんしてなかったし、天気良いし。脚立をはしご状に伸ばして天窓から作業を開始した。

年1~2回はやっているので、回数は軽く20回は越えている作業だ。やればやるほど手際が良くなり、今回は過去最高の順調振りだった。ただ、入口付近の下窓に放水した際、黒い水がエントランスに流れ落ちた。メニュー看板とイーゼル、濡れてしまったフロアマットを見た私。料理も掃除も同じで、焦るといいモンは出来ない。いつもはランチの営業が終わった午後の作業を、時間が限られるランチ前にやったことが悔やまれるのだが、この日の午後は取引先に行く予定だったので、2時間有ればできると思ったし、出来るところまでやれればいいやって思って始めた作業なのに、終わらせよう、と欲が出た。

 

リラダンの窓は、天窓が四枚、下窓が10枚、網戸が5枚有って、今から思うとこの枚数をよくまあ2時間で終わらせられるよって思う。まぁ終わらせられなかったんだけど。

作業の目途が付いていた最後の時、今から思えばそりゃそうだよ、と思う脚立の立て方だった。脚立に履かせていた、滑り止めの使い古しの軍手が濡れた地面で外れたのを目で確認したのに、鋭角に立てかけるべき脚立を鈍角に立てた上部に登る私。思い返す度にああ恐ろしい。脚立の後足がズルッと滑り、私は脚立と共に地面に叩きつけられた。

脚立から落ちたと言うよりは、脚立を抱きながらうつ伏せで地面へ。右手には洗車ブラシ、左手は脚立を握り、脚立のステップに載せていたバケツと両足のつま先は地面に向けていた。落ちた直後、私は全身の関節を動かしてみる。激痛が無いので骨折はしていない。オデコに違和感。手で触れると大量の鮮血。私はその時初めて「やっちまった」と思った。傷口を洗う為、外の水道で顔を洗うんだけど、洗っても洗っても鮮血が手のひらに溜まるのを見て「こりゃダメだ」そう思った私は、洗って干してあった雑巾を手でむしり取り、血液が垂れない様にオデコに押し当てながら厨房へ戻る。スタッフのMさんを呼び「ケガをした。救急車呼ぶから(店の)受話器持って来て」Mさんが119を押し、私に手渡す。オペレーターの男性に事の始終を話す。場所を言うとすぐにわかってくれた。掃除中だったMさんに駐車場の片づけと臨時休業を指示し、私はオデコを押さえながら厨房のガスオーヴンを消して回る。

 

包丁などで手を切った場合、切り口を心臓より上に向けることが大事だ。10分ほど安静にしていれば大抵血は止まる。手を心臓より下に降ろすと再び血が出てくるから、傷口を上に向けたままテーピングする。急いで絆創膏を貼ると余計に血は止まらないのを知っている私は、オデコの皮膚を元に戻し、白いタオルを水道の水で濡らして固く絞ったもの(乾いたタオルや色柄があるタオルはダメ)で裂傷部を押さえて、立ったまま救急車を待つ。へたり込んだりヨコになったりすると血はとまらない。

 

救急車が到着する直前、荷物が届く。前日に発注しておいたベルギー産のクーベルチュール(菓子用チョコレート)7.5kgが東京の取引先から届いたのだ。救急車のサイレンが聞こえてくる。早く配送車に出てもらわないと。ええ、はい、13,381円ですネ。

タッチの差で配送車が出て救急車が停車。私はハッチドアへ歩いて行き、救急隊員さんがストレッチャーを引き出そうとしているのを手で制しながら自分で乗り込む。付き添いはどーします?いえ、私ひとりでダイジョウブです。ハッチが閉じられる。救急車というのは現場到着後すぐには出発しない。まずは受け入れ先の病院が決まらないと走り出せないのだ。私はサイフから保険証を取り出して隊員のKさんに手渡す。タオルで押さえているオデコをKさんが所見。「あれ?血が止まってる」

 

 ( ̄▽ ̄)

 

Kさんが名前、住所、かかりつけの病院、事の成り行きを私から聞き取る。

私:「傷口、縫いますよね?」

Kさん:「そうですね。縫わないとダメかもしれないですね」

私:「施術の上手なセンセイがいい。どこがいいですかね?」

Kさん:「そうですねぇ」

私:「かかりつけの病院じゃなくても全然大丈夫です」

Kさん:「じゃあ、、黒沢病院はどうですか?」

私:「ソコでおねがいしますっ」

救急車がサイレンと共に動き出すのがわかる。カーテンの隙間を見慣れた風景が流れていく。

Kさん:「すぐに着きますからね」

私:「ええ。はい」

なつかしいこの感じ。道路を走行中の皆さん、ごめいわくをおかけします。

 

黒沢病院に到着。ハッチドアから歩いて降りると、看護師の方二人と職員の女性が出迎える。私は言われるままに保険証を女性に手渡す。看護師のAさんに促されて処置室へ歩いて向かう。Kさんも同行。

Aさん:「仕事は?」

私:「フランス料理店を経営しています」

Aさん:「え?仕事でケガしたんでしょ?」

どうやら、届いた情報から建設業だと思ったらしい。

Aさん:「店どこ?」

私:「リラダンっていいます」

Aさん:「知ってるよ!私時々行ってるもん」

私:「料理長でございます (^^♪」

ウチのお客さんでしたか w

隊員のKさんが私の身体に付いてる土や落ち葉を手で払い落としてくれる。

Aさん:「なんでそんなことしてんのよ。業者に頼めばいいじゃん」

私:「なんでもジブンでするんです。私」

横で聞いてる看護師のMさんが「今度食べ行きますね」私は「是非!」ってな感じで処置室はなごやかムード。ひざ下も怪我していたのでAさんが「ズボンまくれる?」って言うんだけど、デニムを履いてるのでムリ。

私:「脱ぎます」

Aさん:「パンツは(脱がなくて)いいよ」

私:「あ、わかりました」

私はAさんに促されながら、今入ってきたエントランスの横にシャワー設備が有って、そこで両ひざから下の血やよごれを洗い流す。Aさんが「水道水ってね、塩素が入ってるから傷の消毒に適してるんだよ」って言うのを聞いて、私は初動処置が正解だったのを確信。そのあと、処置室に戻って今度はオデコの裂傷を自分で洗う。横から拭き取り用のペーパータオルを5、6枚まとめて手渡される。裂傷部を覗き込むAさん「あれぇ?血ィ止まってるね」

その後、PCR検査と抗原検査。鼻の穴に綿棒で二本採取。コロナが5類になったから有料。

振り向くと救急医のK先生がニコニコしてる。先生、縫うの上手なんでしょ?隊員のKさん推奨ですからネ!

Aさん:「先生すごい上手だから」

私:「まじよかったぁ!」

この歳(54才)でイケメン振るつもりは無いンですけど、顔なんで、先生、どうかおねがいします。

Aさん:「先生じょうずだから大丈夫。まぁ、、少しは残っちゃうと思うけどネ。美容整形だったら違うと思うけど」

K先生:「じゃあヨコになって」

私:「なん針縫いますか?」

K先生:「7針かな」

私:「麻酔しますか?」

K先生:「するよ。痛かったら言ってね」

私:「痛かったらどーするんですか?」

K先生:「痛くないって言うまで麻酔を増やす」

私:「自分、歯医者さんでも痛かったら手を挙げてねって言われるんですけどガマンしちゃうんですよ。今縫ってます?刺してる感じがするんですけど」

K先生:「うん。今から麻酔打つよ」

 

縫ってんじゃん w

 

私は「ねぇAさん、コレで縫ってるトコ撮って」腰にぶら下げてたスマホをAさんに手渡すと「センセイの顔は写せないよ」と笑いながら撮影開始。縫ってる間、リラダンの話で盛り上がる。縫い終わったK先生が衝撃の発言。

K先生:「喋るから皮膚が動いてやりずらかったよ(笑)」

私:「えー!縫う前に言ってくださいよぉ。ねぇ先生、縫った糸抜いてもう一度やって!今度は黙ってるから」

K先生:「とりあえず鏡で見てごらん。もしココがよれてるっていうんだったらもう一度やるから」

私は手鏡を手渡され、自分のオデコをジッと見る。うーん、うまく縫えてるかどうか、ってのがわかんない。

Aさん:「キレイに縫えてると思うんだけどなァ」

あ、そうですか?じゃあいいです!センセイ、これでダイジョウブですっ

 

みんながリラダン行くって言うから、私はK先生に、

私:「ウチはハタチ以下は入れないんですよ。先生、お子さん居ます?」

K先生:「独身です」

私:「え!まじですか?それは」

Aさん:「そんなことどーでもいいでしょ!」

K先生:「どーでもよくないっ」

私:「そーだよっ」

 

大切なことだね。

 

K先生:「一週間後に抜糸ね」

私:「K先生が抜いてくれるんでしょ?」

K先生:「外来受け付けだから別の先生がすることになるね」

私:「K先生がいい。おねがいします」

K先生:「部署が違うから」

私:「だめですか?」

K先生:「じゃあ、直接こっちの救急に来てくれたらするよ」

私:「はい!ありがとうございます!」

その後、頭を打ってるのでCT撮影と、脚立を握っていた左手の痛みでX線撮影。共に異常は見られない。

K先生:「画像に写らない細かい骨折も有り得るから、痛みが続くようなら改めて整形外科で診てもらってね」

私:「わかりました」

処方箋を出してもらって会計。労災は従業員を守る制度なので経営者は対象外。民間の保障にも入っていない私は国保で3割負担となり、診療費は14,000円。PCRと抗原の両検査が費用を押し上げたのだろうか。

オデコの裂傷は意外なことに痛みも無いのだが、両足の親指が痛くて靴が履けない。私は向かいのカインズホームへ行き、黒色のサンダルを購入し、黒い靴下に履き替える。これで少しは目立たない。足先が治るまではサンダル履きで仕事をすることに。7針縫ったオデコは、ゲンタシン軟膏を塗って通気性のパッドを貼り、ヘッドバンドを巻く。

 

リラダンに戻ってきたのは13時過ぎ。脚立を立てて登り、最後の窓を洗い、作業終了。呆れる皆さんの顔が目に浮かびます。これからはもっと気を付けて作業したいと思っております。自分、ポジティブシンキングなんで。落ち所が悪かったら失明してたかもしれないし、前歯を折ったり頬を切ったかもしれなかった。そうだとしたら、食事もままならず、リラダンの料理も作れなかったと思う。

 

オデコでよかったぁ。

 

この日はディナーからやりたかったのだが、まぁそーゆーわけにもいかず終日休業となったので、私はその夜のご予約を頂いていたお客様に電話をして、事の始終をご説明。ご理解を賜り、キャンセルに。で、始めたばかりの仔牛のフォンにとりかかる。その後も御来店のお客様にご説明しながら夜まで仕事。翌日から通常営業。

 

しばらくは、ヘッドバンドとサンダル履きで皆様をお迎えすることになりそうです。事情を察していただけるのは、コレを読んでくださる方々だけ。

 

サンダル履きのフレンチシェフ  w

 

ミュシャ(Alphonse Mucha)を知る人は多いと思う。サラ・ベルナール(Sarah Bernhardt)に専属画家として抜擢され、その名を欧米各国に轟かせたミュシャは世界で支持された。祖国のチェコを除いて。

チェコ人としての呼び名は「ムハ」であり、「ミュシャ」はフランス読み。「ムカ」と呼ぶ国もある。'98年にフランスで大ヒットした楽曲「Doo Wop(That Thing)」を歌う Lauryn Hill は、日本ではローリン・ヒルっていうけど、フランスではローラン・ヒルっていう(ローアン・イル)。この楽曲を聴くとパリのヴァージン メガストアを思い出す。

アールヌーボーの図柄はフランス菓子の世界にも浸透してる。パスティヤージュで練習したパティシエも多いと思うけど、ミュシャを知るパティシエがどんだけ居るんだろう。製菓学校で時間を割いてまでミュシャという人物を教えるとは思えない。19世紀末、サラ・ベルナールが女優として劇場を廻り、そのポスターをミュシャが手掛ける。企業が自社製品を宣伝する為に、ミュシャに仕事を依頼する。結果的にアルフォンス・ミュシャという人は、華やかな「企業デザイナー」みたいなイメージが定着しちゃうんだけど、ホントは祖国チェコを愛し、故郷のモラヴィアに想いを馳せ、体育によって身体を鍛えるのは健全な精神を生み出し、結果的にそれは祖国にも良いことなのだと提唱し、チェコに戻って壮大な作品に取り掛かる「画家」なのだ。でも祖国はミュシャに対して冷やかで、評価は首をかしげるほど低かった。

ミュシャ没後も祖国の冷遇は終わらず、1980年にパリのオルセー美術館でミュシャの回顧展が催されたんだけど、祖国の公式見解は「在パリのポスター画家としては活躍したみたいだけど、時代に取り残されてるミュシャの声に耳をかたむける人はいないよ」一方、パリの評論家達は「ミュシャがどんな過ちを犯したっていうのよ。意味わかんないんだけど。アナタ達はミュシャをフツーの装飾画家って言うけど、みんなが知りたいのはミュシャがどんな人だったのかって事なンよ。ソレを知らずにミュシャは語れないから回顧展をやってンだよ!」フランスの新聞で反論したのだった。

「アールヌーヴォーの巨匠」と言われるミュシャだけど、本人は「どこ吹く風」とゆー感じ。会合は欠席するし、議論を交えることも無い。料理の世界でも、ヌーヴェル・キュイジーヌ(新しい料理)という言葉がアンリ・ゴーとクリスチャン・ミヨの二人によって生み出されたけど、ミシュランの星を三つ得たシャペルやトロワグロ、重圧に耐えられず猟銃自殺したベルナール・ロワゾーも、自分の料理にそれを意識することは無かっただろう。カテゴライズされることにあまり意味は無いのだと推察される。ミュシャは「芸術は、一時の流行に左右されず、普遍でなければならない」と言っている。私は " 芸術 " を " 料理 " という言葉に置き換えてみたくなった。

 

流行というものに終焉が訪れた時、新しかったものは古くなり、古かったものは見直される。イタリアルネサンス芸術が絵画の手本となり続けて否定されることなく君臨する芸術界で印象派、ナビ派、キュビズムが台頭してきた時代。保守的なチェコでは「古い」「時代錯誤だ」って感じで批判されまくった。で、20世紀から21世紀にかけて、注目の行き場が無くなってくるとミュシャの作品が見直され始める。ヌーヴェル・キュイジーヌからキュイジーヌ・モデルヌと名を代えてきた昨今、ソース・ベシャメルやグラス・ド・ヴィアンドなどを否定しながら香草やバター、素材のジュ(材料が持つ液体)による調理を推奨して今に至るけど、ベシャメルってやっぱりウマいのよ。洋食の世界では今でもドリアやグラタンで活躍してるしね。ソースに少しだけとろみを付けたい時はレデュイール(煮詰める)するか、なにかのピュレ、もしくはコーンスターチを使うけど、自分で作るベシャメルはまじでウマい。リラダンでは使わないけど、現代でもシャルキュトリー(総菜屋)へ行けばアンディーヴのグラタンに使ってる。フランスでもソース・ベシャメルは健在です。

 

ミュシャは心から祖国の独立を願ってたんだけど、チェコは四方を国境で囲まれているから、外国からの占領、領土の割譲を何度も繰り返す。それでもチェコは独立を果たしたんだけど、他国の支配を全く受けない状態を維持できたのはわずか20年間だった。そういうチェコを見たミュシャが制作に励んだのが「スラヴ叙事詩」という大作なんだけど、私が思うに、ブルターニュへ赴いたのも結局、この大作の資料集めにつながっていたのではないだろうか。きっかけはゴーガンとの交流だったンだろうけど(ミュシャはタヒチへも行った)、故郷のモラヴィアとブルターニュの祖先が実は繋がっているっていうのと、「砂丘のあざみ」と対の作品「岸壁のエリカの花」を見比べてみても、ミュシャはチェコの民族衣装とブルターニュのコワフ、ノルマンディーの衣装とモラヴィアのマダム。

これらの作品においても、チェコの存在を鑑賞者に訴えているように見える。どこに居ても故郷を想い、祖国の為に画業があった。そう思わずにはいられない。

 

アザミの花言葉は「独立」

 

1902年 カラー・リトグラフ 74×35cm

Alphonse Mucha

 

 

 

 

救急車に乗るのは人生で三回目。

自分で呼んだのは二回目。