5éme「急流のそばの幻影、または妖精たちのランデヴー」

福岡のビール工場で、工場見学の男が呑んで車で帰るのをスタッフが未然に防いだ。

男は「徒歩で来場した」と申告したんだけど、工場見学スタッフの女性二人が男のウソを見抜き、警察に通報。駆け付けた署員が車に乗り込む男を制止したとのことだ。その日は雨が降っていて、男は傘を持ってないのに濡れてない。女性スタッフは「これはおかしい」と。

スバラシイね。女性の勇気に私も拍手を送りたい。飼い犬におしっこさせて逆ギレする程度だったらいいけど、人を欺こうとするヤツは何をしでかすかわからない。警察署長はこの行動力と勇気を称えて、二人に感謝状を贈る(毎日新聞)。

リラダンでもフツーにそういうの有ります。シニアカー2台でリラダンに来店した男女。個室に通してのち、ビールを二つ注文したから私は個室へ向かった。男は「酒を出せ」の一点張り。

私:「(お酒は)出せませんよ」

男:「もういい。ノンアルコールビール」

私:「いえ、悪いけど他のお店さんにしてください」

「シニアカーは速度が出ないから(呑んでも)いいんだよ」「他の店では(お酒)出してくれるんだよ」なかなか納得できない様子だったけど、私が個室のドアを開けて、座ってる二人に席を立つように促す。二人は渋々立ち上がり、出て行った。

リラダンにご来店のお客様はご理解有る方ばかりなのでこーゆーのはレアケースではあるんだけど、やっぱり人間っちゅーのは私を含め、いろんな人が居ます。他のレストランは知らないけど、私は基本「これはヘンな客だな」と思ったら塩対応するもんだから、ネットの評価は5段階評価で「1」か「5」かどちらか。真ン中の「普通」って書かれるほうがオレ的にはキツい。

 

フランスでは、店員にチュトワイエ(タメ口)で喋ると笑顔が消えます。リスペクトを込めたヴーロワイエ(敬語)でないとコントラ(契約)は成り立ちません。日本では「お客様は神様」って言うけど、これは三波春夫さんがコンサートのMC(曲間のおしゃべり)で述べた言葉。後年、親族関係者の談話で「ウチの三波は" 私は歌を唄う時に、神様へ声を捧げるつもりで唄うんです。ということは、聴いてる皆さんは神様だね ” と言ったら観客がドッと笑った。お客は神様だと言ったのではありません」と公式に述べている。それを当時の企業がキャッチコピーとして安易に採用しちゃったから手が付けられなくなった。

 

リラダンは20才未満の人は入れないんだけど、どうして?って訊かれる。えっとですね、リラダンオープン時はそんな制限は無くて赤ちゃんオッケーだったんです。で、ベビーカー二台でご来店のお母さん二人をご案内したんだけど、カフェカーテンと新品のテーブルクロスはボールペンでお絵描き帳と化した。その後、未就学児はダメってことにしたんだけど、平日のランチタイムにピコピコ鳴る靴を履いた幼い女のコを連れたお母さんが来店。理由をご説明すると「あ。このコ小学生」

その後、10才未満はダメってことにしたんだけど、明らかに「7、8才だろ?」と思われる子供を「10才です」と親は言う。その次は中学生からのご案内にしたんだけど、家族四人でおねえちゃんは中学生なんだけど、弟君は小学生なのでお断りしたらお父さんが「この店おっかしいんじゃねぇの!」怒鳴りながら出て行った。次に18才未満はダメってことにしたんだけど、18才だという学生服姿の高校生をご案内したら、他のお客さんが「ココ、18才以下は入れないんじゃないの?私は連れてきてないのにそれはないんじゃないの?」とおっしゃる。確かに学生服を着てたら18か16かわからない。結局、怒って帰る人もそこそこ居てはるし。

で、ご利用を「20歳以上」にしたら、今までの悩みがウソのように解決した。

皆々方の言う理解というのは「子供はウルサイ」「ウチのコは味がわかる」「個室だったら廻りにメイワクかけない」というものなんだけど、子供はうるさくないし、悪くない。私がデザートをお持ちすると、小学1年の女のコは「ありがとうございます。私、ガトーショコラ大好きなんです」

小さな女の子がヴーロワイエ。品の無いオトナよりずっといい。ご両親が微笑んでいるのを見た私は、親御さんのお人柄がそのままお嬢さんに受け継がれているのだと感じた。こういうファミーユ(家族)こそリラダンに御案内したい。

 

中学生の男のコと女のコを連れたご両親。洋装もクルマもハイソなご家族。個室にご案内後、スタッフがオーダーを取りに行ったきりなかなか戻ってこない。

ようやく戻ってきたスタッフはうーん、どうしようか、というような顔でこう言った。

「肉のソースを訊かれて、付け合わせを訊かれて、前菜をアラカルトから選ばせて欲しい、と言われて。それから」

私は個室へ赴く。

お母さん:「このコはポテトが好きなのでフライドポテトにしてください。それと私のは」

私:「そういうのは他のお店でしてもらってください」

お母さん:「え?どういうこと?」

私:「すみませんけど、お帰りください」

お母さん:「なにこの店!」

お母さんは怒って立ち上がり個室から出ていく。追うようにご主人も子供達も立ち上がる。一方のお子さんが私に「どうもありがとうございました」

ご理解いただけてる?いただけてない?

 

今まで無かった「ファミリーレストラン」というものが誕生した。文字通り、赤ちゃんからお年寄りまでファミリーでどうぞ!っていうもの。特別な存在だったレストランという社交場。そこへ風雲児ともいえる業態が参入する。街場の個人店は「ウチもダイジョウブですよ」というスタンスにするしかない。世の中はハードルが下がっていき、マナーも下がっていく。秋山徳三氏がご存命だったらどう思うだろう。一方、フランスはもとより英国などは社交界のマナーが守られている。パパとママはタイ&ドレスでソワレ(夜のパーティ)なんだけど、子供達はサンドイッチでお留守番。すると、ピーターパンとティンカーベルが「キミも飛べるさ!」子供達を夢の世界へ連れ出す。

コドモの世界にオトナが入れないのと同じで、オトナの社交場にコドモは入れないのだと、大人は子供に教える。

 

ドニ(Maurice Denis)とセリュジエ(Paul Sérusier)は6歳離れてたけど、互いの境遇は似てるしエコール(美術学校)も一緒だから親しくなった。さらに二人ともゴーガン(Paul Gauguin)を師事。二人が30代の頃、ブルターニュで画業をしていたゴーガンは48歳。ゴーガンに「こーゆー描き方ってどうよ!」とアドバイスされたセリュジエは「それヤバいっすね!」と自分も倣う。パリへ戻って仲間達にそれを語るから、みんなはブルターニュを目指す。ポンタヴァン(ポンタヴェン)やプールデュは宿代が安いしツケで泊まれるし、孤立してた村は彼らを歓迎する。ブルターニュは画家の聖地みたいになっていった。

でもなぜノルマンディーとかビアリッツじゃなくてブルターニュなのか。それは「絵のネタを探していた」から。人も海も街も聖書も神話も描いた。廻りには月並みな景色ばかり。そんな中、たどり着いたブルターニュでゴーガンは「ココはフランスじゃないョ!」ワクワク感がとまらない。まるで異国。まさに異郷。しゃべる言葉はブルトン語。見たこともない帽子。海は荒くて断崖絶壁。変わったお祭り。踊る村人は木のクツを履いてる。彼らが見たブルターニュはインスタ映えするネタの宝庫だった。

といっても、ゴーガンがココを目指した理由はもうひとつ「カネが無かった」から。別居してる奥さんに宛てた手紙で「ココはお金が無くても生活できるし絵は好きなだけ描ける。とても気に入ってるんだ」って書いてる。お金に困ってないセリュジエと比べると動機が不純だけど、私が料理の世界に入ったのも勉強がキライだったから。もし大学目指していたら今とは違う人生だった。あ、誤解されるとご同業諸氏に失礼だから付け加えておくけど、この業界はバカには務まりません。アタマのいい人ほど良い料理を作ります。私はがんばンなくちゃいけません。

 

神話に出てくるニンフっていうのは神に仕える妖精のような存在。ティンカーベルもニンフみたいなものかな。ミケランジェロ、ラファエロ、レオナルド・ダ・ヴィンチが活躍した頃の題材っつーのは、そういう絵画が多数を占めてる。奥さんをマリアにして息子をキリストに例えるドニの作品と、ブルターニュの村人とニンフを共存させたセリュジエの作品はなんだか共通点が有るような気がする。コワフをかぶるブルターニュの女性、その子ども、並んで立つ夫婦達の目の前を美しい女性達が列になって歩みを進める。陽の当たらない森の中、セリュジエは彼女達を後光のように明るく照らしている。先頭を歩く女性が指さす先には何が待っているンだろう。それゆえ「ランデヴー」ってワケなんだね。セリュジエの描くブルターニュが幻想的に仕上がってる。

 

ランデヴーっていうのは、日本では「デート」の代名詞として知られていたフランス語。「Rendez-Vous」って書くんだけど、本当の意味は「待ち合わせ」。フランスでは取引先と会う約束をランデヴーって言います。宇宙で衛星同士がドッキングするのもランデヴー。ちなみにリラダンでは、二人でお待ち合わせのお客様が一人ご来店すると、スタッフが「ユヌ・ランデヴー・パー・ドゥ(女性のお客様がお一人でご来店、お待ち合わせで計二名様になります)」って厨房に伝えます。例えば男性がお一人でご来店して、後から二人来る場合は「アン・ランデヴー・パー・トワ(男性のお客様がお一人でご来店、計三名様になります)」と情報が入り、私は準備を始めます。

 

 

1897年 油彩/カンヴァス 111×182cm

Paul Sérusier