2ème:「私の部屋、目覚まし時計のある静物」

"3K(キツい、キタナい、キケン)”が伴う仕事は世の中にいくつもある。華々しいスターシェフからは想像するのが難しいから、憧れて飛び込んでみたら続かなかった、、という人も少なからず居るこの飲食業界。私の場合、子供の頃から父に「人が嫌がることを進んでやれ」と言われ、イヤイヤながら歳を重ねてみたら、いつの間にかストイックな仕事に美学を見るようになっていた。休憩無し、給料低い、を含めたこの“5K”の世界は性に合ったのである。

毎週ではなかったけど、日曜日には学校の体育着を着て、父に怒られながらテナントビルの清掃に勤しんだ。ポリッシャーの使い方を知る中学生は当時も今もおそらく私だけだと思う。

そんな私は贅沢にも6畳の個室を使わせてもらっていた。ギターやドラムを置いていたからバンドメンバーの練習場所となることもあり、昼には母にカレーライスを作ってもらった。雪草楽器のスタジオを繰り返し借りたし、ヤマハのポプコンにもエントリーした。司会者に「ハードロックは通過しにくいんだよね」ってみんなの前で言われて。思った通り予選敗退だったけど。

コーヒーにも興味があって、サイフォンを愛用した。ホントはダメなのにバーボンとかスコッチを並べて、おいしくないのに我慢してチビチビ飲んだ。バイト禁止の高校なのに、ジャズ喫茶(バードランド)で週末を過ごすような、ぶっ飛んだ未成年だった。

ホントにホントはダメなのに、ギグ(GIG)の後、メンバーみんなで「けん太」や「養老乃瀧」へ打ち上げに行くと、向こうのテーブルで友だちが呑んでて「おおー!居たの~♪」というのは未だに信じられないが。

学校から帰って、暑い夏に飲む自家製の梅酒はマジでサイコーだった。だいじょうぶかな、こんなこと書いて。

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「私の部屋、目覚まし時計のある静物」は、日本を離れてずいぶん経ったフジタの作品。これを日本で審査するという段取りに、フジタの父親が「ふざけるな」と。

フランスで確固たる地位を築いている息子の作品を論じるとは言語道断だと日本のサロンに抗議。出品を撤回する騒ぎに展開。結局、無審査で推薦された。渡仏したフジタに資金面でも援助を続けた父親の、愛情の深さを物語るエピソードだ。

 

つづく